LOGIN書斎の扉が反動で閉まると、ルファルの手が腕から離れる。
「……それでどこへ行こうとしていた?」(低い声……相当怒っているわ……)リリシアは胸の上にぎゅっと両手を重ね合わせ、口を開く。「ソフィラさんの元に母からの手紙が届き、居ても立っても居られず、宝石を届けてもらおうとソフィラさんのところへ……わたしは売られた身であり、お姉さまの元へは帰れない為、せめて宝石だけでもと……」ルファルの目が鋭く細まるもリリシアは話を続ける。「もしかしたらシャイン皇帝がわたしの呪いを解こうとした影響が、お姉さまにも出ているのではないかと思い、シャイン皇帝から授かったこの宝石をお姉さまに届けられたら効くかもしれないと思って……」「シャイン皇帝からの恩を仇で返すつもりか」ルファルが冷酷に怒鳴ると、リリシアの瞳が揺れる。「ですが、お姉さまが* * *今宵は、あいにくの曇天であった。ルファルは灯台の最上階、バルコニーへと続く一室にて、両膝に置いた剣を大切そうに両手で包み持つ。これまで夜の時間は、バルコニーで月の光を浴びながら瞑想を重ねてきた。食事の時間を除けば、月が姿を隠している間も全て、この場で月の魔術を剣に注ぎ続けている。だが、一向に剣は目覚める気配がない。それでも。今宵こそはと、ルファルは切なる願いを込め、剣を固く握り締めて静かに力を注ぎ込んだ。しかし、夜が更け、雨が激しく降りしきる頃。ルファルの身体は力なく揺らぎ、剣と共に床へ崩れ落ちた。「はぁ、はぁ……っ」ルファルは荒い息を吐き出し、静まり返った一室で己を見つめる。(……ついに、限界がきたか)ルファルが修行を始めてから、すでに、はや、ひと月が経過していた。焦燥、気負い、そして苛立ち。それらが精神を蝕み、肉体を疲弊させるのは当然のことだった。だが、それだけではない。――剣を目覚めさせようとしながらも、私は心のどこかで、この剣の覚醒を恐れている。その刃に、前皇帝の残滓を感じてしまうからだろうか。それでも、諦める訳にはいかない。「私は……リリシアの元へ帰らねばならない」ルファルはふらつく足で起き上がると、再び剣を手に取った。* * *翌日、雨が上がり、陽光が眩しく差し込む午後のこと。リリシアはテオの修行場にて、最後の修行の場に立たされていた。昨日の午後、空中でのテオの魔術を間一髪で結界により弾き返したことが認められたのだろうか。だが、その最後の修行は、リリシアの想像をはるかに超える過酷なものであった。テオが雷の魔術で作り出した幻影を目の当たりにした瞬間、リリシアは心臓が凍りつくのを感じた。そこに現れたのは、もう一人の自分――それも、自らの内にある畏怖を凝縮したような姿だった。「さぁ、この幻影を消してみせろ」テオが冷酷な笑みを浮かべて言い放つ。自分自身を、この手で葬れというのか。そんなことは、リリシアにはどうしても出来なかった。なぜなら、リリシアにとって「自分自身」という存在が、過去の呪縛そのものであり、何よりも深い絶望の象徴だったからだ。テオが指先を微かに動かした瞬間、もう一人のリリシアが、電撃を鞭のよう振り下ろした。「っ……!」リリシアは反射的に身をひるがえし、それを避ける。
ふわり、と――ただ、優しく包み込まれるかのように触れられただけのはずだった。けれど。その白く冷ややかな掌から零れ落ちるかのような、あまりに強烈な殺気に、リリシアの全身が凍りつく。目の前の青年――テオの整った貌(かお)が、まるで本物の「悪魔」であるかのような、底知れない恐怖に支配される。冷たい汗が、一筋、首筋を伝った。あまりの恐ろしさに声すら出ない。抗いがたい威圧感に、意識が遠のいていく。けれど。(……いいえ、逃げてはいけないわ)リリシアは震える手を伸ばし、自らの首元に触れているテオの手の甲に、そっと掌を添えた。そして、逃げ出したい心を必死に抑え込み、凛と背筋を伸ばして、その冷たい瞳を真っ直ぐに見据える。テオは、ほんの一瞬、意外そうに目を見開いたが、すぐに唇の端を吊り上げた。「……神魔術隊以外で気絶しなかったのは、お前が初めてだ。どうやら、そのか弱い見た目に反して、根性だけはあるみてぇだな」テオはリリシアの手を振り払うように、首元からパッと手を離した。直後、恐怖から解放された安堵に、リリシアはその場に崩れ落ちる。そのまま、けほっ、とむせ返すリリシアをよそに、テオは冷たく背を向けた。「……明日もここへ来い」* * *それからというもの、日々のテオの元での修行は苛烈を極めた。されど、18日目となる今日。テオが、初めて剣を鞘から抜いた。その瞬間、周りの空気が一変し、落雷のような轟音を響かせ、雷光を纏った一撃が放たれる。リリシアは清浄な結界を必死に張り、それを弾き飛ばそうとする。だが、テオが雷光の連続魔術を続けざまに放ち、そのあまりに強大な力と天才的な剣さばきの前では、リリシアの結界など無力に等しかった。――――パリ、ン。テオの右手の剣によって、結界は容易く斬られ、粉々に砕け散る。テオは、はー、と退屈そうに息を吐いた。「まだこの程度か。もういい」テオが左手をリリシアへ向
* * *ただひたすらに眠りの深淵でルファルを想い続け、月が替わった翌日の午後。リリシアはフェニクス邸の玄関で、アルベルトに深々と頭を下げる。今朝、ふと意識を取り戻した時、ハクヴィス邸のベッドの上だった。カイスが眠っている間に馬車で運んでくれたようだ。感謝を伝えても、カイスは無機質に「……当然のことをしたまでです」と短く返すだけ。それでも、アルベルトへの挨拶を済ませていないと告げれば願いを聞き入れ、こうして今もなお、後ろで静かに付き添ってくれている。「地味な真似はよせ。行け、背筋を伸ばしてな」顔を上げると、髪を秋風に揺らすアルベルトが、豪胆かつ華やかに送り出してくれた。カイスが扉を開け、リリシアは馬車へと乗り込む。そうしてフェニクス邸を離れ、しばらくの間、馬車に揺られてエクレール邸へと辿り着くと、そこには神魔術隊の中でも、最も近寄りがたい青年――雷の魔術師、テオが待ち構えていた。白髪に、透き通るような色白の肌。華奢な体格と整った顔立ちの外見に反して、その身に纏う空気は誰よりも鋭利で、非道なまでの威圧感を放っている。「呪い月。最初に言っておくが、俺は手加減なんて甘ったるいもんは持ち合わせてねぇからな。……さっさと来い」テオがそう吐き捨てて歩き出し、リリシアとカイスは凍りつくような空気の中、無言でその背中を追う。やがて、邸宅の中庭の奥にある、古びた扉の前でテオが足を止めた。「この扉は雷の魔術によって、ある現実に存在する場所と繋ぎ合わせている。よってカイス、お前はこれより先は進入禁止だ。ここで寝てろ」テオが自身の瞳に雷光をちりつかせた。すると、カイスさんは抗う間もなくその場に崩れ落ち、静かに目を閉じる。「カイス様っ……!」リリシアは胸が締め付けられる思いで振り返る。けれど、テオは冷徹に背中を向けたまま、扉を開け放った。「……執事に言って部屋のソファーに運ばせて寝かしておくから問題ねぇ。ぐずぐずしてんな、行くぞ」扉の先には、外の世界とは隔絶された、大森林が広がっていた。木々のざわめきが止んだ中心部に、黄金色に輝くクリスタルような柱が天へ向かって伸びている。「テオ様、あれは……?」「俺の修行場を守る雷柱だ」「いつも、ここで修業をなされているのですか?」「あぁ。……剣の修業をな」――こんな神聖な場所に、わたしのような者が
* * *アルベルトの過去に触れてから、リリシアの心は温かな何かに満たされていた。あの方の胸の内に宿る炎が、誰かを救う為のものだと知ったから。そうして瞬く間に時は流れ、修行を開始しておよそ3週間。末日の前日となっていた。昨日は青い炎の檻を半分以上壊すことが出来た。だから今日こそ、越えられるはず。そんな淡い期待を胸に抱くも、現実は非情だった。これまでにない程強固なアルベルトの青い炎の檻にリリシアは閉じ込められ、完全に囚われてしまう。――アルベルト様の本気がひしひしと伝わってくる。(……違う。これまでのものとは、圧倒的に違う……)ここで、死ぬかもしれない。そう思った瞬間、全身が凍りつくような感覚に襲われ、ごほごほっ、と激しい咳が込み上げた。咳は止まらず、視界がぐらりと揺れる。それでも、リリシアは必死に両手を床に突き、己を支えた。「けほっ……はぁっ、はぁっ……」(苦しい……息が上手く出来ない……もう、動けな……)弱音を心の中で吐いた時、ふと脳裏をよぎったのは、遠い地で同じように心身と戦っているルファルの姿だった。――そうだ。ルファル様に、約束したのだ。『待っている』と。ならば、約束を果たす為にも。このままここで、終わりにする訳には、いかない。リリシアは両目を閉じ、ひたすらに意識を集中させ、強く願う。――お願い、壊れて。その痛切な願いに呼応するように首元の宝石が神々しい光を放ち、清浄な結界が展開され、リリシアを包み込み、そして。――パリィィィ、ン。硬質な音と共に、青き炎の檻を粉々に破壊した。目を開けると、まるで色鮮やかな花びらが舞うように、あんなにも憎らしかった青き炎の檻が、跡形もなく霧散していく。ようやく、やっと……。檻を、壊せた。視界の端に、駆け寄って来たアルベルトの姿が映る。そして、いつもの明るい笑みを浮かべ、リリシアの頭をぐしゃりと撫でた。「リリシア、見事だ。――合格だ」その言葉と大きな手から伝わる熱に、張り詰めていた糸がふつりと切れる。大粒の涙が、堰を切ったように頬を伝い零れ落ちた。「今からシャイン皇帝とテオにその皆を伝える。ここで休んでろ」リリシアがコクンと頷くと、アルベルトはすぐさま、ふたりへ向けての報告に取り掛かる。焰の魔術で机上の2枚の書面と羽根ペンを浮かせ、目の前まで引き寄せるとペ
* * *リリシアは窓の外に浮かぶ月をしばらく眺めたのち、カイスと共に馬車に揺られ、ハクヴィス邸へと戻った。されど翌日の午後も過酷な修行は続き――気がつけば10日が過ぎ去ろうとしていた。カイスは修行の妨げになるというアルベルトの命により、初日を終えた翌日から特別室の外で待機を余儀なくされている。今日という日も、リリシアはたったひとりで、あの青い炎の檻に閉じ込められていた。淡い光を放つ清浄なる結界は、日が経つごとにその強度を増している。けれど、積み重ねてきた努力の甲斐あって、青い炎の檻の一部を壊すことは叶うようになっていた。(今日こそ、必ず)リリシアは座り込んだまま祈るように瞳を閉じ、胸の内で静かに、その身に宿る力を一点へと集中させる。すると、それと呼応するようにリリシアの力が研ぎ澄まされていき――、次の瞬間。――パリィ、ン。硬質な音を立てて、青き炎の檻の半分が粉々に砕け散った。「……はぁ、あと、もう少し。もう一度だけ、結界を」そう願いを込めようとした矢先のことだった。喉の奥から込み上げる激しい咳に、意識が乱される。「……っ、ごほっ、ごほごほっ」リリシアは床に両手を突き、激しく咳き込む。するとその耳元に、パチン、とアルベルトが鳴らした指の音が鼓動のように響いた。呼応するように青い炎の檻が一瞬で消え失せ、アルベルトはすぐ傍まで駆け寄ると、その伸ばした大きな手が優しくリリシアの背中をさすり始める。「……大事ないか、無理は禁物だぞ」「はい……っ、さすって頂き、ありがとう、ございます。おかげさまで、少し楽に……」アルベルトは安堵の息を吐き出す。そのまま細められた瞳でリリシアを見下ろし、どこか誇らしげに、また感心したように微笑んだ。 「青い炎の檻を半分も壊してみせ、倒れもせずに踏み留まるとは、大したものだ」「……アルベルト様の、厳しいご指導のおかげでございます」「はっ。……お前を見ていると、時折、昔の自分を思い出す」不意に零れたその言葉に、リリシアは思わず顔を上げる。そして、ふと疑問を抱いた。この豪快で力強い人が、かつてどのような道を歩んできたのか。「……アルベルト様は、なぜ神魔術隊に入団なされたのですか?」問いかけてからリリシアはハッとし、口元を押さえた。恐れ多いことを口にしてしまった……。「あ……申し訳ありま
* * *遙かなる修行の地へと向かう道中、ルファルは愛馬から降りて休息を取っていた。柔らかな午後の日差しが、木々の間から差し込んでいる。されど、秋風が頬を撫でた時。ふと胸元から伝わった微かな不穏な予感に、ルファルは眉をひそめる。白銀の輝きを纏う枠に嵌(は)め込まれた小さな満月のような水晶に、細いチェーンがしなやかに風に揺れたこの胸元のブローチは帝都にてリリシアから受け取ったものだ。今頃、アルベルトの元でリリシアは修業に励んでいるはずだが――、胸騒ぎが消えない。リリシアに何かあったのだろうか。胸の奥締め付けられる。だが、この感情に引きずられてはならない。例え何があろうとも、前皇帝が遺したこの世に唯一無二の剣を目覚めさせるまでは、リリシアの元へ帰ることは許されない。ルファルはブローチを握り締め、一度強く目を閉じた。浮かぶのは、あの儚げなリリシアの面影。(……リリシア)ルファルは心の中で名を呼び、苦悶を滲ませる。やがて、深く息を吐き出すと、ルファルは己の感情を理性の底へと封じ込め、再び瞳を開く。その眼差しには静かで強固な決意が宿っていた。ルファルは馬の背へと跨る。そのまま夕闇が迫る修行の地へと迷わず馬を進めた。* * *しばらくの時が流れ、リリシアはフェニクス邸の一室でゆっくりと深い眠りから覚めた。「……リリシア様」傍らに控えていたカイスの、低い声音。名を呼ばれ、リリシアの意識をがはっきりとする。窓の外はすでに深い闇に包まれていた。「カイスさ……ごほっ」リリシアは慌ただしく身を起こそうとして咽(むせ)る。「リリシア様、大丈夫ですか? まだ、お休みになられた方が……」「……いいえ、もう充分です。カイス様、申し訳ありません、これ程長く眠ってしまうなんて……アルベルト様を怒らせ







